昭和44年11月20日  夜の御理解    若先生(大坪勝彦)の御教話



 年をする場合に二通りの意味合いがあると思うんですけれども、例えば、そう言う事をしちゃ目ですかといって人に説得する場合、本当にその人を責めるだけの手段で言う時と、本当にこの人に助かってもらいたいと思うて言う事と時と二通りありますね。
 例えば、それとか、批判のための批判をする場合があるんですけれども、前章の場合は絶対この人に通じないと思います、例えば共例会なんかでそう言う事をよく体験するんですけども、その時には言い勝つんですよね、自分が、あーやっぱり若先生の言うのが正しいというぐらいに、いいかつですけれども、一向に人に通じてない、人に次ぎの行動に撃つまでに響いていないという事を度々経験するんですけれども、また、そう言う時には本当にその人に助かってもらいたいという親切心といいますか、そう言う実意な心から出た言葉じゃなくて、ただ、あの、自分の言うのが正しいんだと、それを通したいとか、その人の言う事を批判したいから、ただそれだけの意味合いにしかない場合には真には言い買ったけれども、後が淋しかったり、なんかこう、空しさを感じたりする場合がある訳なんですけれども。
 私達が、例えば、特にこの親しい者同士の言葉のやり取り、そんなことして勿体無いという裏には、そんなことしたら損する、馬鹿らしかという気持ちが多分にある、言葉にだまされるような事が度々あるんです、だから、人に通じないと、人に伝道しないという時には絶対こちらの我情我欲から出た言葉だと思うて間違いないし、その、自分が言った言葉が人に次ぎの行動に移せない場合にはこちらのそういう、なんて言うんですかね、見栄でいったり、欲で言ったりする場合だと思うて間違ってないようです。
 先ほど、久富先生とお風呂へ入りながら、こんなお話をしたんですけれども、今度、アポロ12号ですか、月に着陸成功して、そう言う、いろんな仕事が始められておる訳なんですけれども、対したことだともいます、人類の進歩は対したことだと思いますけれども、そして、この久富先生が言われる事に、やっぱりあー言うものを見ますと、人間が過信するなといっても過信しやすいですね、もう、科学がすべてだと、医学がすべてだと、人間の力では出来ないような、出来ない事はないと言うように過信しやすいんですけれども、これはある書物で読んだことですけれども、実際それにたち触っておる当時者というのは、そういう自然に対してものすごい、その、謙虚な気持ちで接するといわれる。
 たとえ、ユガ博士なんかは、あの、あーいう、科学的な知識ですか、でノーベル賞まで重用されたぐらいの頭の持ち主なんですけれども、そう言う人たちは実際そう言う自然科学の脅威に触れて、その、びっくりなさるわけなんですよね、本当に神様というのはこの世に厳然としておられるというものを、その科学を通して体得なされるというような事をある雑誌で読んだんですけれども、いけないのは、ただ中途半端な、あの、勉強をした人とか、生かじりに勉強をした人がとかく神を否定したり、自然を軽視したりする向きがあるんですけれども、私達が力不足の時には人を、人を過信するですね、人を甘く見るんです、そう言う時に、えてして失敗しやすい元が出ると思うんです、人が軽く見える時、また、物が軽く見える時には中途半端な信心であり、力不足の時の信心であると思うて間違いないと思わせて頂きました。
 まあ、あれやこれや申しましたけれど、人に通じると、言う事は、これはもう人間形成、これだけの人間が住んでいる以上、もう、かくベガざることです、そう言う意味合いでも本当に自分の気持ちが人に通じる、自分の誠意が人に通じるという意味合いに於いて、人を軽う見るということ、また、自分の欲でものをいうと言うようなことをさけねばならないと思わせて頂きます。         
                     どうぞ。

末永静行
2006年2月25日